告別式ご参列ありがとうございました

- 写真中央=遺影に向かい弔辞を読むソフトバンク王貞治監督
写真左、上から、告別式に駆けつけた中西太氏。式場を出る金田正一氏(右)と大沢啓二氏(手前)。献花のため祭壇前に進んだ(左手前から時計回りに)東尾修氏、小川史氏、今井雄太郎氏、加藤伸一氏、中日落合博満監督
写真右、上から、祭壇に献花した武蔵丸親方(右)と山本浩二氏。並んで式場を後にするソフトバンク松中信彦内野手(左)と吉田豊彦氏。左手首のケガでサポーターを巻いて出席したソフトバンク小久保裕紀内野手。参列しお別れの献花をした前参議院議長の扇千景氏
1500人の方々に見送られ旅立ちました
07年11月22日、告別式が福岡市内で行われました。野球界はもとより各界から著名人がご出席くださいました。また、ファンの皆様が遠方からも駆けつけ、約1500人の参列になりました。ソフトバンク王監督から弔辞を読んでいただき、また参列の皆様全員から祭壇に献花をいただき、稲尾和久は旅立ちました。その様子を上の写真でお知らせいたしますとともに、前回までにご紹介していなかったメールも追加いたします(ご芳名は省略させていただきます)。今後もメールをお送りいただく際は「鉄腕広場」からどうぞ。
ソフトバンク王貞治監督から読んでいただいた弔辞は以下のとおりです。
弔辞。
神様、仏様、稲尾様。あなたのことを語る際の枕詞となった昭和33年の日本シリーズ。私は巨人軍への入団が決まり、後楽園球場での4試合すべてを一塁側スタンドから観戦していました。野武士軍団と呼ばれた豪快野球とともに、鉄腕と称された、あなたのすごさを初めて目にした時でした。その後入団した年のオープン戦で初めて対戦しましたが、あなたとの真剣勝負の戦いは昭和38年の日本シリーズでしたね。結果は私たち巨人軍が勝ちましたが、私はというとあなたに見事に抑え込まれ、セ・リーグとパ・リーグの2つに分かれ、普段の対戦が少なくて良かったと強く思ったものです。
剛速球というより、ボールを操る技術は素晴らしいし、すごいの一語に尽きました。そしてその年のオフには航空会社の招待旅行で、あなたと野村さん、長嶋さんと私の4人でヨーロッパに行きましたね。みんなで豪快にお酒を飲んだり、買い物に出かけたりしたことが、終生忘れることのできない最高の思い出としてよみがえってきます。
当時の野球界は勝つことがすべてであり、今では考えられないような使われ方をする時代でした。あなたがそれまでの酷使のため、選手寿命を削られたことは日本の野球界にとって、そして多くの野球ファンにとっても大変残念なことだったと思います。しかしその後も監督、コーチとして後進の指導に当たり、多くの選手を育てるとともに野球界の発展に多大な貢献をされてきたことは、私たち後輩のお手本でもありました。ユニホームを脱がれた後は名球会のハワイでの行事や野球教室でご一緒させていただきましたが、温和な風ぼうに温厚な人柄そのままに調整役に徹し、運営を支えてこられました。
また、私がホークスの監督として福岡に来たときも、各界、各層の皆さまとの出会いにお力を貸していただき、公私にわたる福岡での生活を有意義で充実したものにしていただきました。ただ、ただ、感謝の一言に尽きます。あなたとのお付き合いを思い起こすに、あまりにも多くの思い出がありすぎて、すべてを語りつくすことができないことが残念でなりません。それだけに突然の訃報は今でも信じることができません。
自分のことより西鉄ライオンズのことを考え、野球界の将来を憂い、野球界に殉じた稲尾さん。残された私たちはあなたの遺志を引き継ぎ、今まで以上に野球界を盛り上げていくため、力を惜しまず取り組んでまいります。
稲尾さん、今はただ安らかにお休みください。
鉄腕稲尾さん、さようなら。
◆告別式に参列いただいた主な著名人は以下のとおりです(五十音順、敬称は省略しております)
【野球関係】秋山幸二、安部和春、伊藤光四郎、井上善夫、今井雄太郎、王貞治、大沢啓二、大島康徳、大田卓司、岡本伊三美、小川史、落合博満、香川伸行、加藤伸一、金田正一、岸川勝也、北別府学、木下富雄、衣笠祥雄、楠城徹、小池唯夫(パ・リーグ会長)、河野昭修、小久保裕紀、権藤博、榊原聡一郎、杉本正、外木場義郎、高倉照幸、滝内弥瑞生、竹之内雅史、角田雅司(ソフトバンク球団代表)、鳥越裕介、永射保、中西太、中村勝広、西村貞朗、野村謙二郎、浜崎満重(延岡学園高監督)、浜名千広、東尾修、平松政次、藤田学、藤本博史、藤原満、坊西浩嗣、星野仙一、松中信彦、松原誠、真弓明信、水上善雄、三村敏之、宮寺勝利、基満男、山内孝徳、山崎裕之、山下大輔、山田久志、山中正竹(横浜球団常務)、山本和範、山本浩二、吉田豊彦、吉田義男、吉本亮、若田部健一、若松勉、渡辺正和
【その他のスポーツ、芸能関係】扇千景、上岡龍太郎、黒岩彰、島倉千代子、中嶋悟、武蔵丸、松山千春
【政財界関係】鎌田迪貞(九州経済連合会会長)、長尾亜夫(西日本鉄道社長)、松尾新吾(九州電力会長)、吉田宏(福岡市長)
【男性】
稲尾和久さんの訃報を聞いたのが夕方家に帰ってきてからで本当に良かったと思っています。
こんな事を朝方に聞いていたら、一日中仕事にならなかったでしょう。
実際九州福岡生まれの兄は、県立高校の教師であるにも関らず、塞ぎ込んでその日は休んでしまいました。
ご多分に漏れず我が家も自分を除き(自分は神奈川県生まれ)皆九州福岡出身。福岡県生まれの人間が西鉄ライオンズ、そして稲尾和久を知らないはずがありません。
自分も小さい頃から稲尾和久と言う人がどれだけすごいのかを言い聞かされて育っています。昭和39年生まれの自分は当時充分に稲尾和久を知りません。あの頃は巨人のV9真っ直中でしたから、その巨人が足下にひれ伏すチームがあったなどと言うのはにわかに信じられませんでした。
それを目の当たりにしたのが新東宝の映画「稲尾物語」でした。ドイツ文字の如何にも強そうで、かつセンスの良いデザインのユニフォームを着た選手達がランニングをしている姿を見ただけで、幼心に「これは…この人達は本当に強いかも知れない!」と判ったのですから、映画とは言え侮る事なかれです。
稲尾投手は映画の中で軽~い感じで投球していました。ですが引きで撮った実写と実際に放たれたボールのすごさがどうも結びつきません。「あんな軽い投げ方(実際は理にかなっているのでしょうが)で、どうしてあんなすごい球が投げられるのだろうか?」と思ったものでした。
そんなすごい人が、今度ロッテの監督になり川崎球場に来る!
これは応援しない訳にはいきません。
川崎在住の同級生と一緒に閑散としたボロボロの川崎球場へよく行きました。
それまでロッテにあまり良い印象が無かったのですが、元来応援し続けていたロッテファンの友達曰く、
「この監督(もちろん稲尾監督)が来てからのウチのチームは何だか全然違うんだよね…。」
別にいつもと変わらない試合運びの筈が、見ていてドキドキするし、逆転シーンが増えるし、楽しいんだよと友達は言います。自分も単純に横浜スタジアムの試合より楽しく感じました。
そして期が重なったのでしょうか、村田兆治投手の復活劇をサンデー兆治登板と言う演出でかましたのも稲尾監督だったですよね? 村兆が投げれば落合が必ずホームランを打つ! 唯々単純にシビレました。ボロボロで狭い川崎球場が、どうしてこんなに盛り上がるのか、稲尾監督がいた頃のロッテには本当にワクワクさせられました。
稲尾監督在籍時のロッテ最高位は2位だったと記憶しています。あの球場で、あのメンバーを率い素質を開花させ、よくぞ2位にまで…千葉に移ってからのロッテよりも、個人的には川崎にいた頃の稲尾オリオンズが自分は見ていて楽しかったし、心から応援していました。稲尾監督がロッテを去った時は心底がっかりしましたよ。きっと落合選手も同じだったんでしょうね。
いつか稲尾監督と球場でお会いする機会があったら、勇気を出して色々聞いてみたい事がイッパイありました。
ですがそんな事も叶わず逝ってしまわれました。このサイトを知ったのも訃報を知ってからと言うタイミングの拙さ…。
ココでは何と鉄腕自らが丁寧にファンの質問に答えられていらっしゃるじゃないですか!
アメリカじゃどうだかは知りませんが、たとえ現役を退いて数十年とは言え、今でもファンが質問をしてくる元野球選手が、そしてファンに直接丁寧に答えようとするそんな人が果たしているのでしょうか? このサイトを知ったのが遅過ぎたと言う事に関しては、正に痛恨の極みです。そして今更ながら、今も尚ファンに応えようとこういうサイトを運営していらっしゃった鉄腕稲尾と言う人の驚愕に値する偉業に、自分は頭が下がる一方で、これを書きながらも涙が出てくる始末です。
ご本人から帰ってくる事が無い手紙を綴るのは寂しい限りですが、この鉄腕稲尾の精神の万分の一でも、見習い行動に移せたらと心に期してこれから頑張ります。
有難うございました。
【男性】
早すぎます! 我らのスーパースターが旅たつには・・九州人に大きな夢・愛を与えてくださった背番号24。今でも瞼の奥に在りし日の雄姿が鮮やかに残っています。胸のすく大活躍いつまでもいつまでも・永久に語り継がれるでしょう! そして、大成した選手なのにまるで「実るほどたれる稲穂かな」其の儘のお人柄、貴方は本当にプレャーとしても人間としても「神様・仏様・稲尾様」でした。
安らかなお眠りをお祈りいたします。そして、アリガトウ鉄腕24番!!
【女性】
三年前76歳で亡くなった父が大ファンでした。
自分たちの野球チームでの背番号は必ず24番。
若い人から中畑? と言われ、ばかやろう・・・とがっかりしていたとか。
私は大活躍の頃は2~3歳で記憶にはないのですが
さんざん聞かされてきました。
稲尾さんのホークスの野球解説の時は必ず聴いていました。
厳しく暖かい稲尾さんが大好きでした。
ご冥福をお祈り致します。
【男性】
突然の訃報に胸がいっぱいになりました。
まだテレビがない時代に〔伝説の日本シリーズ〕をラジオで聴いていました。
あの、さよならホームランの時は思わず大声を上げて、部屋中を飛び回ったことを今も鮮明に覚えています。
数年前、所用で初めて福岡を訪れ、念願の旧平和台球場に行きました。
当時の西鉄ライオンズのメンバーを想像し、頭の中で試合を描き、稲尾さんのピッチングフォームを思い出しながら、
しばし時の立つのを忘れてしまいました。
雑誌「ナンバーズ」の西鉄ライオンズ特集を読み返しながら、ご冥福をお祈り申し上げます。
ありがとうございました。
【男性】
熊本北部の田舎の子供だった私は、昭和38年8歳の誕生日の翌日に生まれて初めて平和台でプロ野球観戦の栄に服しました。
たしかどんたくシリーズと呼ばれていた南海との2連戦の2試合目。3回頃西鉄の先発が野村はじめ強打の南海打線につかまると、なんと登場したのは前日延長10回を完投勝利した「鉄腕稲尾」! 三塁内野席(こちらも全部西鉄ファン)に座っていたので稲尾さんの投球を正面からみる事が出来ました。そして9回まで南海打線を沈黙させ西鉄の連勝! 途中中西監督が「代打、わし!」と登場された時の盛り上がり様。奇跡の逆転リーグ優勝の年でした。
大学生の頃、変わり果てたライオンズの応援に平和台に通いました。夜はプロ野球ニュースでトヨさんの切れ味鋭い解説を楽しみました。
この想い出は私の財産です。フレーフレー!ニシテツ!頑張れー鉄腕稲尾!
【男性】
当然の訃報に言葉を失いました。
昭和31年生まれの私は、現役時代の稲尾さんの活躍を直接観たことはありませんでしたが、物心ついた時から野球は西鉄ライオンズでした。あまりにも有名な1958年の日本シリーズで3連敗のあとの4連勝での奇跡の逆転優勝など、多くの活躍がテレビで紹介され、稲尾さんの現役時代を観てきたように錯覚しています。
20年程前、別府で稲尾さんの親族が経営する“稲尾”によく行き、ママと稲尾さんの話をいつもしていました。ある日、ママから「和さん(ママは稲尾さんをそう呼んでいました)が来てるよ! 出ておいで!」と電話をいただきました。稲尾さんは同級会で帰っていたらしく、ママが私の話をしてくれたようでした。中津からタクシーで駆けつけました。
1時間程かかったため着いた時には、ちょうど店を出て行くところでした。
初対面の私に「先輩を待たせて何事か!直ぐに戻ってくるから待ってろ!」と言って出て行かれました。
ところが、30分もせずに戻って来てくれたのです。同級会の二次会を数ヶ所に分かれて行っていたらしく、ひと回り顔を出して戻って来てくれたのです。
そのあと、稲尾さんは私と二人で遅くまで一緒に飲んでくださいました。
ママから私の事を聞いていたようで「初めて会ったような気がしない」と言って、巨人の江川投手の引退の時の(裏)話や自分のお嬢さんの事などいろいろな話をしてくださいました。
大きな身体ですが本当に優しい方でした。276勝の右手で握手していただいた感覚は今でも忘れていません。
野球解説で声を聞く度にその時の事を思い出していました。私には一生の思い出です。
またいつかお会いできる日があればと思っていたのですが残念でなりません。
心よりご冥福をお祈り申し上げます。
本当にお疲れ様でした。ありがとうございました。
【男性】
稲尾さんのあまりの急な訃報を聞き愕然とした状態が いまだに続いていて言葉になりません・・・
父に手を引かれ宗像から汽車に乗って通った平和台。
稲尾さんの熱投を昨日の様に思い出しています。
私の名前「鉄平」は西鉄の鉄に平和台の平を頂いています。
稲尾投手は私が一番尊敬するプロ野球選手でしたし、あこがれでもありました。
史上最強の野武士軍団を日本一に導かれ、燦然と輝く数々の記録は永遠に語り継がれる事でしょう。
私が果たせなかった夢を息子に託し、小学生からピッチャーをやらせたのも稲尾投手に少しでも近づかせたかったからです。
稲尾和久さんのご冥福を心からお祈り申し上げます。
僕の青春だった西鉄ライオンズと稲尾投手!・・・ありがとう
【女性】
シーズン終了を待つかのような野球人らしいけじめの最後でした。
でもあの名解説が来シーズンから聞けないと思うと残念で寂しくてたまりません。
私が野球好きなのも亡き父の影響です。
途切れ途切れに聞こえるラジオからの野球中継を父が必死に聞いていてその姿が忘れられず娘の私もラジオから流れる中継が好きになりました。あの夏の・・・蚊のいる夏・・・西鉄ライオンズが大好きな父でした。
今頃、大ファンの父は稲尾さんに出会って感激してるかも知れません。
安らかに・・・ありがとうございました、そしてお疲れ様でした。
【男性】
2006年7月8日、私はホークスの試合(フルキャスト宮城)を観戦するために福岡空港から仙台行きの飛行機に乗りました。
そのとき、待合ロビーで稲尾さんを見かけ、搭乗ゲートから機内へと移動する際に、ひと声おかけしたんです。「今日は向こう(仙台)の天気はどうですかねぇ?」と聞くと、「うん、大丈夫らしいよ。向こうのスタッフが言ってたからね。」と返していただきました。
どうやらその日はラジオの解説だったようです。
それからいざ飛行機の中に入ってみると、なんと、私の隣の座席に稲尾さんが座られたのです。機内では、スポーツ紙を2~3紙チェックされていた稲尾さん。さすが、野球解説者だなぁと思いました。
あれから1年ちょっと。つい先日までプロ野球の解説を元気に担当されていたというのに・・・、まだ信じられません。
ご逝去当日に放送された「今日感テレビ(RKB)」での追悼番組。球界人のコメントを読みながら号泣してしまった川上キャスターの姿を見て、私も涙がボロボロ出ました。来年も稲尾さんの解説を楽しみにしていたのですが、とても残念です。
でも、あんなに野球を愛した稲尾さんのことですから、きっと雲の上で来年も解説していることだと思います。雲の上の野球ファンのために・・・。
【男性】
小学校3年生で九州を離れ、まったくのカルチャーショックのなかで、西鉄ライオンズは一種、心の支えでした。時折りしも「黒い霧事件」の最中で、稲尾監督が奮闘なさっていました。
たしか最下位の年、無謀にもファンレターを書いてしまいました。
すると、「西鉄ライオンズ監督・稲尾和久」というお年賀が。
監督の直筆かどうかはわかりませんが、「励ましのお手紙、ありがとう。今年こそは頑張ります」と手書きが添えてありまして、子どもながらに感激ひとしおでした。
そんな感動は歳を経るごとに強まるものです。本当にありがとうございました。合掌。
【男性】
私、昭和26年6月4日生まれ56歳です。稲尾さん6月10日生まれ双子座で、改めて勝手に親近感を覚え懐かしさに浸っております。
鉄腕稲尾黄金期は私、小学生で上着は白シャツ、ズボンは白トレーニングズボンの裾にゴム入れしてもらい、黒のストッキングは買いました。いわゆる、自家製のクラッシック・スタイルで、背番号24(マジックで書いてたかな?)。
今の大手門3丁目にすんでおりました。すのこ小学校真横の公園で帰宅途中にランドセルを置いたまま、毎日野球、野球で、担任の女性先生からもう暗くなってるから帰りなさい、と先生が帰宅の途中に声をかけられるまで、寝ても覚めても野球、野球。
平和台球場に母が作ってくれた観戦用の小座布団(当時は座席は木製長板)を持参し、私が29歳時に亡くなった父とよく見に行ってました。本当に懐かしいです。
稲尾さんのおっかけで、マウンドで投げてる時は、一生懸命応援し、当時はピッチング練習場は、内野席と外野席(ライト方向)の間にあり、試合中でも稲尾さんが投げてなく、ブルペンからライト方向ピッチング練習場に稲尾さんが歩いていくのを見ると、試合観戦はせずに、練習場に走って行って稲尾さんの練習を見ていたほどです。(小学校の文集の夢は、いつも野球選手と書いてました)。
一杯思い出があり過ぎて、きりがありません。
【稲尾さん、思い出&夢をありがとうございました】。。。。。。☆さだまつ☆
【男性】
突然の訃報に驚きと共に、寂しさが日々募ってきます。
小生、S21年大分市生まれで、現在は福岡市在住の者です。S33年日本シリ-ズの第5戦「投手稲尾」のサヨナラホ-ムランを社会見学先(臼杵の石仏)の近郊で、友人が持参していたラジオで聞き、歓声を上げ、感動した事が昨日の様に思い出されます。(当事の野球少年がそうであった様に、小生も巨人ファンの一人でしたが、「稲尾」は別格でした。)
日本プロ野球に、お願いがあります。それは、各年活躍した投手に【稲尾賞】を是非とも設けて頂きたいことです。
改めまして、稲尾さんのご冥福をお祈り申し上げます。
【男性】
私は、北海道旭川市に住んでいる45歳の男です。先日の稲尾さんの訃報、ただただ驚き、信じられませんでした。もちろん、現役時代の勇姿は生では拝見していませんが、稲尾さんの解説は、大好きでした。又、最近子供の手術等の為、福岡こども病院に通っているせいか、そちらのテレビでも拝見していました。
なんと、稲尾さんの200勝達成の日に私が生まれたんですよ。
何だか、すごく寂しいです。一度だけでも、お会いしたかったです。ゆっくりおやすみください。ご冥福をお祈りいたします。
【女性】
プロ野球の「品格」そのものの稲尾さん・・・残念です。
どうぞ安らかに・・・
【男性】
突然の訃報、驚いています。稲尾さんは私の父と同じ年です。父も今年脳梗塞で倒れ手術をしました。
稲尾さんの伝説は親戚からもよく聞きました。九州に田舎を持つ私は稲尾さんは尊敬していただけにショックでなりません。ご冥福をお祈りします。
【男性】
私の少年時代のヒーローであった稲尾投手、平和台球場に通って見つめたその勇姿は、今でも目に焼きついています。
あの最強軍団には、私の高校の先輩である河野選手がいたということもあり、思い入れが強いですが、稲尾さん無しでは成り立たなかったでしょう。
本日の告別式にお参りできないのが残念ですが、大阪からご冥福をお祈り致します。
【男性】
みちのくに住む団塊世代の男性です。
小学生時代、三角ベースで仲間と暗くなるまで遊んでいました。
いなかの子供たちがベーゴマで遊ぶとき、彫られている名が多かったのは、なぜか西鉄の選手たちでした。中西、豊田、稲尾、大下・・・。
日本シリーズ奇跡の逆転劇は当時(10歳)知りませんでした。社会人になり西鉄の大ファンだった職場の先輩からその活躍ぶりを聞き、なぜベーゴマに西鉄の選手の名が多かったのか、その理由がわかりました。
解説者になってからの理路整然とした話しぶりに頭脳派投手の片鱗を窺いしりました。いま盛んに西鉄黄金時代のことが書いてある本を探して読んでいます。
「われらのヒーロー」の逝去に、こころからご冥福をお祈りいたします。
【男性】
28年前に、どこかの体育館で野球教室があった際に稲尾さんからほんの少しだけ、ご指導いただいた者です。わたしも39歳となってしまいましたが、いまだに稲尾さんから教えていただいた時の嬉しさが忘れられません! ありがとうございました!
【男性】
稲尾さんの突然の訃報には大変驚きました。
今日の告別式も野球界を問わず多くのの関係者の方々がお見えになられて生前の人柄がよかったのだなと思いました。
私は西鉄の頃はリアルタイムで見た事が無く、さよなら平和台球場という番組で初めてみました。何て体の大きな方だと小さかった私はびっくりしたのを覚えております。
近年では今日感テレビでのあの優しい笑顔とか
マスターズリーグの監督さんというイメージをもっておりました。
70年の人生大変お疲れ様でございました。
【男性】
九州の星が1つまた消えてしまいました。自分は、関東生まれですが、稲尾さんと、河村さん、三原監督の本を読んで西鉄球団が好きになりました。マスターズリーグも、ドンタクズだけ応援してます。
早すぎる死です。
ライバルだったホークスが、博多に来て日本一にもなって、池永さんも復権したのに、残念です。ご冥福をお祈りいたします。
【男性】
私は現在、58歳の会社員です。 突然の訃報で愕然としました。
小学校の頃からの大ファンでいまでも数字は24と言う番号が一番好きです。
稲尾物語の映画を当時、見ました!
稲尾さんのお嬢さんとの対談番組稲尾Q談やNHKの講演番組を今懐かしくもう一度見ています。
数年前の平和台記念碑の披露時も気持ちよくサインを貰ったうえに、写真も一緒に写っていただき、今では私の大切な宝物です。
今、東京に単身赴任中の為、告別式には行けませんでしたが心よりご冥福をお祈りいたします。
私の憧れのスパースター稲尾和久様!!
【男性】
ショックです。まさかこんなに早く悲しい知らせを聞くことになるだなんて・・・
8年前に亡くなった私の祖父は、西鉄ライオンズの、特に稲尾さんの大ファンだったそうです。私は稲尾さんの現役時代の後に生まれた世代なもので、実際のご活躍を拝見してはおりませんが、日本シリーズでのの四連投など、その伝説は聞くだけでも興奮せずにはいられません。
また、マスターズリーグでの精力的な活動など、生涯を野球界の発展のために尽くしたその人生は忘れることができません。
稲尾和久さん、どうぞ安らかにお眠りください。
【男性】
稲尾さんの訃報に接し、心よりお悔やみを申し上げます。
既に、三原監督・大下右翼手・関口左翼手・仰木二塁手等の黄金期メンバーが鬼籍に入られており、往時の西鉄ファンとして寂しく思っているところに、あまりにも突然で70歳と早い報せに茫然自失で言葉も有りません。
私は昭和20年佐賀県生まれのいまだに永遠の西鉄ライオンズを夢見ている男性です。
昭和29年秋の西鉄・中日の日本シリーズを新聞記事で知ったのが、プロ野球と西鉄ライオンズの存在を知るきっかけとなりました。
その後53年間にわたり新聞・ラジオ・テレビ・球場でプロ野球を楽しませて頂いておりますが、最高に興奮し鮮明に記憶に残っていることは昭和31年~33年の巨人を完ぷなきまで打ちのめした3連覇の偉業です。
当時、福岡の隣県でありながら熊本出身の打撃の神様川上さんの影響からか同級生の大半は巨人ファンで、少数派の西鉄ファンの私は口角泡を飛ばして喧嘩・口論したものです。
ことに、田舎の小学生にとり稲尾さんの活躍によるライオンズの勝ち試合をラジオで聞き、翌朝の新聞記事を読むことが最高の楽しみでした。小学6年生の役目の週番の居残りで、昭和32年日本シリーズの実況放送を友達と奪い合って鉱石ラジオで聞き一喜一憂したことや、ペナントレースでの南海ホークスとのデットヒートを今でも鮮やかに思い出されます。
稲尾さんとのかかわりは小学6年生の担任(年配の女性の先生)が、私が西鉄ファン派で稲尾さんの大ファンであることを知ったうえで、稲尾さんの大活躍と謙虚で驕らない人柄を例にして「実れば実るほど頭を垂れる稲穂かな」の諺を当時勉学で天狗になりかけていた私を諭してもらったことを思い出されます。
その後(昭和33年)、テレビが家に入り、稲尾さんの右かかとを上げる独特のピッチングフォーム見て他のピッチャーと違うことを発見して、弟とかかとを上げたフォームを真似たものです。目をつぶれば稲尾さんの右踵を上げて投げる躍動する投球動作が鮮やかに再現されます。
近年の思い出としては、NHKテレビで放映された「経営者を対象とした稲尾さんの講演会の録画」を見て含蓄のある内容と話し方に稲尾さんの人となりを改めて認識させられ小学6年の先生の話を思い出したものです。
稲尾さん、今はただ安らかに御眠りください。
教訓と興奮と楽しさを頂き心から有難うとお礼を申し上げます。
さようなら。
「私達の少年時代の憧れであり希望だった、鉄腕稲尾、神様仏様稲尾様。あまりにも突然で悔しくてなりません。いまだに栄光の西鉄ライオンズの大フアンである。」の書き出しのお悔やみメールを拝読させて頂きました。いまだに往時の西鉄ライオンズを思いを夢見ている方が私ばかりでなく他にもおられることを知り心強く思っています。
私は今、福岡市の球場の一塁側にホークスが座っていることに忸怩(じくじ)たる思いをし、昭和29年から53年間永遠の西鉄ライオンズを掲げて何時の日か西鉄ライオンズが復活することを真剣に願っているオールドファンです。
貴殿の稲尾さんへのお悔やみメールにより私と同じ思いをする方の存在を知ることになりましたことにお互いの稲尾さんへの思いが結びつけたものと勝手に思っています。直接に連絡することはかないませんが、鉄腕広場のメールを通じて意見を述べさせて頂きたく思っています。私のお悔やみメールが掲載された場合はご一読いただければ幸甚に思います。