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第11回:打撃投手に落とし穴

◇指導者不在
平和台球場のベンチで和田博美捕手(左)と記念撮影に納まる稲尾和久

 いよいよ稲尾のプロデビューも間近に迫りつつあった。だが、その前に少しばかり話を脱線させてもらう。稲尾はプロで活躍できた大きな理由に、ライバル畑投手の存在とプロ1年目のキャンプ中で延々と打撃投手を務めたことを挙げている。畑投手の存在は精神面での支えであったが、打撃投手については自らで「鉄腕」の基礎をつくり上げたんだ、という自負もあるようだ。

 半世紀も前のプロ野球は「指導」というものは、ほとんど存在しなかった。例えば稲尾のルーキーシーズンの1956年(昭31)、西鉄ライオンズの首脳陣は三原監督以外は、助監督に大下弘氏、投手コーチに川崎徳次氏がいただけ。しかし彼らは30歳台半ばの現役兼務であり、現実的には名ばかりのコーチで、確実に彼らの軸足はプレーヤーにあったといってよかった。

◇ポロリ一言

 現在のプロ野球界は担当部門別に2人ほどのコーチがつき、コンディショニングや、場合によってはメンタルコーチまでチームに帯同する熱の入れようである。だが、稲尾の時代はそんな恵まれた? 環境ではなかった。選手の技術アップは選手個人に委ねられており、西鉄のような独特のムードを持ったチームでは先輩の助言をもらうにも、冗談か本気か「ナンボくれる?」と、先輩の手のひらが伸びてきたほどだった。

 「まあ、育った環境と言ってしまえばそれまでだが、オレたちの時代は中学野球からそういうふうに育った。何をやるにも理論というのがあるが、基礎的なものはある程度教えなければいけないが、実践的なものは自分のオリジナルなだけに、教えようとしても無理。自分でつくるもの、という考えだった。昔の指導者というのは実践的なものは教えない。『自分でつかめ』という指導だから」。

◇自分で解決

 同期へのライバル心と連日の打撃投手業務で精神的にも肉体的にも1カ月で大きく成長した稲尾だったが、また大きな転機があった。オープン戦期間中のブルペンでのこと。大先輩であり投手コーチ兼務だった川崎氏が稲尾の投球を見てポロリと言った。「打撃投手をしていただけに(打者が)タイミングを取りやすい。どこかで(フォームを)ずらせないのか」。これまで実戦登板のなかった稲尾は、打者との勝負という点で最も大切なものを看過するところだった。とはいっても、川崎氏が手取り足取り教えてくれるわけではない。

 基本は自分で考えろ、である。そこで稲尾が思いついたのが、投球動作に入るときから右足のかかとを大きく上げるフォームだった。【佐竹英治】

 ◆稲尾の投球フォーム 稲尾の投球フォームで最も特筆すべきところは、軸足である右足のかかとを高く上げ、そのまま投球動作に入っていたことである。西鉄時代に「黄金バッテリー」といわれた稲尾の女房役でもある和田博美氏(70)は「投げるということについての体のバランスは、素晴らしかった。右足のかかとを上げたまま、投球動作に入ってくるのは、並大抵の足腰の強さではできない」と証言する。また、稲尾は2年目からは軸足の蹴りをさらに強くするために、右のスパイク裏の土踏まずの部分にジュラルミンの棒を打ちつけた。少しでも足裏から張力がつくように工夫していたのだった。

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