第2回:9年目初の0勝
◇東京五輪の64年
14年間の現役人生を振り返るとき、稲尾は「栄光」と「挫折」の2つのステージに分ける。56年(昭31)の入団1年目からの8年間が「栄光」で、その後の6年間が「挫折」である。
投げれば勝てる、勝つために投げる。何を疑うことなく黙々と投げ続けた。だが、鉄腕の右腕は少しずつ摩耗していたのだった。9年目の春のキャンプ。寡黙に耐えてきた右肩がついに悲鳴を上げた。ボールが投げられないほどの激痛が走った。鉄腕人生、暗転の始まりだった。
この年(64年)、稲尾は0勝(2敗)に終わった。日本国中が東京オリンピックにわき返った年だ。戦後日本の復興のシンボルとしてまさに列島が熱狂した年である。周囲の過熱ぶりとは対照的に悶々(もんもん)とした日々を送らなければならなかった。それも同じスポーツに過熱しているだけに、稲尾にとってはまさに屈辱の日々であった。
◇翌年復活2ケタ
翌年の65年はカムバックを果たし13勝、66年にも11勝を挙げたが、これが最後の2ケタ勝利となった。64年から引退する69年までの6年間で鉄腕が挙げた白星は42個。栄光の8年間からすれば1/5にも満たない数字である。
「結局、残りの6年間で42勝。61年のシーズンの白星と同じ数字(42勝)しか挙げられなかった。オレにとっては苦労の6年間だった」。
チームのために投げ続けたエースが、チームのために投げられなくなった。栄光を味わった人間にとってこれほどつらいことはない。自分の数字もさることながらチームに貢献できない腹立たしさ、苛(いら)立ち、悔しさ…。現役を引退した69年はたった1勝に終わった。大エースの衰えと歩調を合わせるように西鉄ライオンズも常勝の時代は遠い過去のものとなっていた。球界を巻き込んだ野球賭博に関する「黒い霧事件」の影響でチームは弱体化の一途をたどった。
◇引退69年は1勝
そんな厳しい条件の中、稲尾はライオンズの監督に就任した。まばゆいばかりの栄光に彩られた現役時代とは対照的に監督としては苦労の連続だった。その後、中日の投手コーチ、ロッテ監督と活躍の舞台は変わったが、稲尾の心の中心はいつも九州・福岡だった。
58年に他界した稲尾の父久作の言葉が今でも耳に残っている。
「海の住人、海から出て海に帰る。山の住人、山から出て山へ帰る」-。
稲尾は言う。
「九州から出ようとはまったく思わなかった」。西鉄入団から稲尾の本拠地はずっと福岡のままである。ちょうど50年前、稲尾は大分・別府から博多にやってきた。
次回から栄光と挫折を味わった「鉄腕人生」の出発点にフィードバックする。 【佐竹英治】

