最大の武器を隠すスライダー
◇序盤の不調
3年目のシーズンが幕を開けた。稲尾はスライダーとシュートという2つの球種をマスターし、チーム3連覇へ向けスタートを切った。父久作の死から約2カ月。順調に調整したつもりだったが、開幕から波に乗ることはできなかった。
「4、5月は絶不調だった。親父が亡くなったこともあって、キャンプをすべて全うできなかったことも影響したのかもしれないが、まあ、そんなことは理由にならない。でも5月にはちょっと右ひじの内側が痛くなったりした」。
エースの不調に歩調を合わせるかのように、チームもなかなかエンジンがかからなかった。稲尾の4月の先発登板は1度だけ。5月5日のこどもの日に大毎戦で2安打完封勝利を飾ったものの、4、5月は7勝5敗。前年(7勝1敗)に比べて4つも貯金を減らしていた。
◇南海に杉浦
足踏みする西鉄とは対照的に、V奪回を狙うライバル南海は絶好調だった。立大から杉浦投手が入団。即戦力のサブマリナーの活躍もあり、順調に白星を積み重ねると、球宴前までに西鉄(3位)を11ゲーム差も引き離す独走状態に入っていた。3連覇を狙う西鉄にとっては厳しいペナント争いとなった。4、5月こそ出遅れた稲尾だったが、6月に入ると右ひじの状態も回復し、本来の力を発揮し始めた。6月8日の東映戦で2度目の完封勝利を挙げると4連勝。7月も5勝を稼いだ。
とはいえ、南海とは11ゲーム差もある。稲尾にとって大きな転機、さらに成長のきっかけとなったのがこの年の球宴だった。広島、そして本拠地平和台で2試合が行われたが、初戦の広島では当時の球宴記録となる5者連続三振をマークした。後半戦に向けて大きな手応えをつかむピッチングだったが、それ以上に収穫だったのは平和台での出来事だった。練習中のパ軍ベンチ前。ライバル南海の杉浦投手が他選手と雑談しているところを通りかかった。「プロの打者はすごいな。投手のボールの握りを見て球種を予測するもんなあ」。杉浦投手の話にアッと思った。そういえば…。稲尾は開幕直後の南海戦で野村捕手からシュートを痛打されたことを思い出した。過去2年間は打たれていない球だった。前半戦の不調もあってずっとモヤモヤしていた謎がパッと解けた気がした。
◇だまし合い
現在のようにチームにスコアラーなどいない時代だ。手元で球種がバレないように防御策は自分で考えなければならない。シュートにしても多少握りを変えたりした。いわゆる「情報戦」のはしりである。稲尾といえば武器はスライダーとよくいわれる。これも稲尾がこの当時からカムフラージュのために売り込んできたことだ。
「おれの最大の武器はシュートなんだよ。みんなスライダーと思っているかもしれないけどね。シュートを意識させないようにいつも『スライダーが良かった』と言い続けてきたからね」。
稲尾も結構、タヌキだったのである。【佐竹英治】
