心の充実が生んだ奇跡の大逆転
◇後半17勝1敗
8月に入ると、稲尾の勢いは加速度を増した。後半戦初登板となった2日の近鉄戦に先発し、勝利すると8月は無傷の8連勝。9月も8勝(1敗)を挙げ後半戦は17勝1敗という驚異的な数字を残し2年連続の30勝以上(33勝)をマークした。
エースが大車輪の活躍を見せると、チームも上昇機運に乗る。球宴前まで11ゲーム差あった絶望的な数字は、またまた「奇跡」の大逆転という結末でペナントを制した。南海に1ゲーム差を付け、西鉄がリーグ3連覇を達成したのである。
◇21歳の急成長
「ペナントでは11ゲーム差を追いかけ、ひっくり返した。確かに厳しいシーズンだった。開幕直後はおれ自身も不調だったし。ただ、この年はおれにとって本当に大きな年となった。今、振り返ってみれば投手として一番、成長したシーズンではなかったかと思う。スライダー、シュートの球種をマスターできたこともあったし、球宴での杉浦さんの話を聞いてから打者との駆け引きを考えるようにもなった。特にノムさんみたいな、相手の配球を読んだり、クセを見たりする打者を打ち取るために、こっちもいろいろと考えるようになった。年齢は21歳と若いけど、急成長した年だった」。
テクニカル面はもちろんだが、稲尾が成長を自負できた背景には特に精神面の充実があった。シーズン中のことだ。「ピンチの場面での気持ちの持ち方」について、ずっと自問自答していた。先輩投手にも聞いたし、他球団の選手たちにも疑問をぶつけた。投手としての最大の悩みだった。これを解消しないことには大きな成長はない-。稲尾の「取材活動」が始まった。
「技術的な話なら野球選手は参考になるけど、心理面となると、野球選手の場合は同じ悩みを抱えていることが多く、結局、答えが出ない。それで野球以外の人と積極的に交わるというか、話すようにした」。
◇作曲家と食事
博多でも遠征先でも積極的に町に出た。それもサラリーマンが集まるような居酒屋や屋台に足を運んだ。「今、何か悩みはありますか?」。隣に座ったおじさんたちに、問いかけて回った。すでに大スター。何で稲尾がここに…と思われることもあったが、そんなことはかまっていられなかった。ある時、作曲家の浜口庫之助氏(故人)と食事の機会があった。「歌はいいですね? 世の中明るくできますし」と話しかけると「稲尾くん、野球だってできるじゃないか」と返された。稲尾はハッとした。
「今まで、勝負に『勝つ』という意識ばかりだった。ファンに『見せる』という意識がなかったと痛感した。だからピンチの場面でも抑えなくちゃとか自分を追い込んで委縮することが多かったが、同時に打者もピンチなんだ、と思えるようになった。スーッと楽になった。野球以外の人と話すといろんなヒントをもらえたなあ」。
稲尾はそれ以後、ピンチの場面でも動じなくなったという。今は居酒屋で大好きな焼酎のロックを「ジャズで」と親父ギャグを飛ばしているが、堂々としたものである。【佐竹英治】
