第3回:平和台を母と慕った
◇板張りスタンド

- 02年3月3日、平和台球場の記念モニュメントを見る、西鉄OBの左から中西太、稲尾和久、豊田泰光の各氏
稲尾の心の中に「聖地」は生き続けている。平和台球場がなくなると決まった後、ひとり球場に足を運んだことがある。西日が差すグラウンドに足を踏み入れ、誰もいない球場のホームプレートに立った。そして、ゆっくりと目を閉じた。
板張りのスタンドから響く博多っ子ファンの大歓声…。時には厳しいヤジも交じってくる。まぶたの内側には背番号「24」を背負い、マウンドで躍動する若き18歳の自分自身がいた。
「平和台球場そのものが、母親の胎内という感じ。そしてスタンドで応援してくれたファンが父親。平和台という球場から稲尾和久というプロ野球選手は生まれた。ファンの熱狂的な励ましに応えるために連投もしたし、投げるたびに喜んでもらえるのがうれしかった。あのころのことがまぶたに浮かんできた」。今ではすっかり歴史公園と姿を変えた「聖地」を振り返るとき、稲尾は必ず「母なる平和台」を強調する。
1937年(昭12)6月10日。今でいう「時の記念日」に稲尾は大分・別府市で生まれた。父久作、母カメノの7番目の子供だった。5男2女の末っ子。第1子の長女久子(故人)は16歳上。「和久」という名は町内の長老が名付けたという。あまり泣くことはなく、おとなしい赤ちゃんだった。文字通り「久しく平和に生きて欲しい」という願いを込めて命名された。別府湾に抱かれた温泉の町で漁師の子として生まれた赤ん坊は18年後、同じく平和の願いを込めて名付けられた「平和台球場」で、九州の、いや球界の大スターとして栄光の道を歩むことになる。
◇お客さんと一体

- 63年10月26日、日本シリーズ第1戦 西鉄対巨人 平和台球場のマウンドに立つ西鉄の稲尾和久
「現役時代、平和台で投げると、なぜか落ち着いていられた。当時はグラウンドとスタンドの高さがあまり変わらず、声援も近くに感じた。お客さんと一体となって戦っているという感じがした。確かに、板張りのスタンドだし、雑草も生えていたから、今思うとみすぼらしかったんだろうけど、あんな雰囲気の球場は平和台だけだった」。
◇今は歴史公園に
稲尾にとっての聖地・平和台球場は97年、波乱万丈の48年間の歴史にピリオドを打った。鴻臚(こうろ)館遺跡の発見で歴史公園に生まれ変わることになった。今は、球場の記念モニュメントが明治通りに面する福岡城跡のお堀前に設置されている。モニュメントは縦97センチ、横180センチ、高さ60センチで、実物の平和台球場の200分の1のサイズだ。歴史の中に平和台の歴史もまたのみ込まれたが「鉄腕」と呼ばれた稲尾の輝かしい野球人生をはぐくみ育てたのは間違いなく「母なる球場」であった。【佐竹英治】
◆平和台球場 プロ野球の西鉄、太平洋、クラウン、そしてダイエーが本拠地とした。1948年(昭23)、第3回国民体育大会のため福岡市の福岡城跡にあった米軍施設にサッカー場などを建設。「福岡平和台総合運動場」と名付けられた。「平和台」の名は当時の福岡師範学校(福岡教育大)の岡部平太教授が「スポーツは平和の証明。平和のウテナ(台)として守っていきたい」と命名。50年(昭25)に野球場が完成。収容人数2万5000人(58年の改装工事で収容人数3万3900人となる)。52年(昭27)から西鉄ライオンズの本拠地となる。54年にナイター設備完成。79年の整備工事でグラウンドが人工芝に。87年の外野席改装工事に伴い、平安時代の迎賓館だった鴻臚館遺跡が発見される。89年(平元)から4年間はダイエーホークス(現ソフトバンクホークス)の本拠地となった。92年10月1日のダイエー-近鉄戦を最後にプロ野球の歴史に幕を閉じる。97年、歴史公園として整備されるため、球場閉鎖後、取り壊された。