74年「これで本当に休める」
◇72年球団譲渡
西鉄に生まれて西鉄で育った「鉄腕」がついに母体を失うことになった。監督3年目のシーズンオフ。1972年(昭47)10月27日、西鉄が球団譲渡を発表した。厳しい経営状況から絶えずうわさはあったが、ついに現実のものとなってしまった。ロッテのオーナーだった中村長芳氏が新オーナーに就任し、太平洋クラブライオンズという新球団に変わった。稲尾は監督を引き継いだが、不安は募った。3年連続最下位という屈辱の監督生活ではあったが、浮上の手応えは感じつつあった。東尾、河原、柳田らの若手選手が芽吹き始めていたし、何より稲尾自身に「監督」としての自覚が芽生えていた。
「今置かれている環境の中でどうするか、というふうに考えられるようになっていた。監督2年目は38勝に終わった。口が裂けても選手たちには言えなかったが、シーズン1人で42勝したのに、それにも至らなかった。選手の責任ではなくてオレ自身が脱皮したかった。最悪の状況の中からも東尾らが出てきていたしな。この戦力をしっかりととらえることで、ようしやってみようという気持ちになっていた。そしたら身売り。また一から出直しか、と」。
◇一から出直し
経営母体を持たなかったため、太平洋クラブは2年でクラウンライター・ライオンズに改称する。稲尾は太平洋の2年間、チームを率いたが73、74年はともに59勝64敗(7分け)、勝率4割8分で4位というまったく同じ数字に終わる。西鉄から通算5年間のライオンズ監督成績は常に借金生活。厳しい球団運営と歩調を合わせるように戦績も振るわなかった。というよりむしろ、戦う以前のチーム運営だった。太平洋時代はロッテとの遺恨試合を演出したり米国風のファンサービスを取り入れたりとファン獲得に力も入れたが、経営の好転はなかった。
「メーンはもちろん、試合なんだが、親子デーやアベックデー、夫婦デーなんかをつくって観客動員に躍起になった。試合だけじゃなく、球場に来てお客さんを喜ばすエンターテインメントというか、サービスする姿勢はあったな。ロッテ金田監督との乱闘シーンをポスターにしたり、ちょっと行き過ぎもあったけどな」。
74年。稲尾は選手14年、監督として5年間の計19年間在籍したライオンズのユニホームを脱ぐことになった。
◇3年間の勉強
「未練も何もなかった。正直言ってこれで本当に休めるのかな、と思った。今までのようにいろんなことに神経を使わなくていいと思った。ゆっくり休もう、そう思った」。
75年から3年間、野球評論家としてネット裏から野球を見守った。75年春には米国に渡り、ドジャースのキャンプも見た。ネット裏からの3年間でセ・リーグの野球もしっかりと目に焼き付け、各球団のキャンプにも足を運んだ。
「あの3年間は勉強になった。自分のチーム以外、キャンプなんて見たことなかったし、本当に新鮮だった。もう1度、監督として勝負したくなったもんな」。
78年、稲尾の元に中日から投手コーチ就任要請が来た。初めてセ・リーグで働くことになった。竜投を育てた3年の間に、ついに福岡から愛するライオンズも消えてしまった。【佐竹英治】
