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九州移転条件にロッテ監督

1978年10月12日、クラウンライターの中村オーナーは球団譲渡契約に調印する。左は堤国土計画社長
◇最後のユニホーム姿

 稲尾の最後のユニホーム姿はライオンズではなく、オリオンズとなった。84年から3年間、稲尾はロッテの監督を務めた。稲尾が中日の投手コーチだった78年10月にクラウンライター・ライオンズは西武への球団譲渡を発表。九州からプロ野球チームは姿を消した。中日の投手コーチを3年務めて、福岡に戻った稲尾を待ち受けていたのは「球団誘致運動」だった。

 「『返せ返せライオンズ』という歌があったように、ライオンズが移転してからは、九州にプロ球団を誘致できないか、ということになった。福岡の青年会議所を中心に署名活動も行われたし、実際、オレも九電の会長だった瓦林さんや、ロイヤルの江頭さんら、財界の人たちに相談した。最初はどこかの球団を買収するしかないと思ったけど、最終的にはフランチャイズを移す方法しかない、ということになったわけだ。そしたらロッテが九州移転を考えているということで、それに乗ったわけだ」。

 球団誘致については稲尾も四方八方、手を尽くしたようだ。当時のセ・リーグ鈴木龍二会長からセ8球団への拡張計画も知らされ、球団経営に色気のありそうな企業なども個人的に当たったようだが、最後はロッテのフランチャイズ移転話に乗る格好で監督を引き受けることになった。球団を九州に移すということが条件の監督就任である。

 結論から言えば、稲尾はロッテの監督を3年間(84~86年)務めたが、球団は九州には来なかった。移転作戦は失敗に終わるわけだが、稲尾がロッテ監督を辞任してから2年後、福岡に南海を買収したダイエーが「ホークス」を連れてやってきた。今はダイエーも球団を手放し、球団の親会社はソフトバンクとなったが、ホークスは実力、人気ともに球界トップのチームに成長した。何としても福岡にプロ野球球団をもう1度、という稲尾の思いは結果的に結実したことになる。

◇稲尾の人生のキーワード

 「オレたちが戦った平和台はなくなってしまったし、球団もライオンズではなくなったけど、福岡には野球ファンがいる。オレには福岡にプロ野球チームとファンがいることが一番なんだよ」。

 現役時代はチームのため、ファンのために投げ続け、西鉄ライオンズの3年連続日本一に貢献。個人成績でも不滅の42勝など数々のタイトルを手にしてきた鉄腕が、引退後は弱体化するチームのかじ取り役を任され、揚げ句の果ては球団は身売り。博多からチームが去ると、今度は誘致のためにフランチャイズ移転作戦のためライオンズ時代の敵でもあったロッテの監督に就任。稲尾の人生のキーワードは博多であり、福岡であり九州だった。

 「肌なんだろうな。その土地の気候風土にあっているというと簡単だけど、九州から出ようとは思ったことがないなあ。中日、ロッテに行ったときも球団から『こっちに住みませんか?』と聞かれたけど、住む気なんてなかったからなあ。おやじが言っていた『海の住人、海から出て海に帰る、山の住人、山から出て山に帰る』じゃないけど、肌が九州に染まっているんだな」。【佐竹英治】

◇西鉄OB中西太氏の鉄腕評

 「監督、指導者としてはいろいろ無理な状態で、非常に苦労の時代だったからかわいそうだったけど、それはその人がたどる運命。まあ、監督よりもコーチになった方が彼には合っていたかもしれんな。私とは4歳違いで、かわいい弟みたいなもんだよな。私が寮の部屋長をしていたとき、稲尾は寝かしといたらいつまでも寝とったし、厳しい先輩にも、ものおじしない強さがあったなあ。とは言っても、人との接し方は素直だしな。漁師のオヤジさんに育てられた環境もあっただろうけど、しっかりした人間やね。余分なことは言わないしね。今でもそういう子は育つよ」

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