鉄腕の歩み 鉄腕の栄光 鉄腕グラフ 日刊スポーツ連載 鉄腕人生

 

第6回:3年たって帰りたくない

◇父の願いも
別府湾で伝馬船をこぐ稲尾(後方)と和田捕手

 今年6月で70歳となる稲尾の「プロ野球人生」は、もう半世紀を超えた。現在は新聞、テレビなどでの野球評論、講演活動などで活躍しているが、もう1つ、商事会社の社長という肩書がある。

 だが、稲尾は苦笑いで言う。

 「おれに商売は向いていないな。商売的なセンスはないよ。大名商売というのかな。今日損しても明日取り戻せばいいという、どうしても甘い部分がおれにはある。利益を生むという感覚が少ない。でも、商売人はそういうわけにはいかないだろう」。

 とはいえ、稲尾がかじを取る会社は順調ではある。

◇漁師には・・・

 さて、話は昔にさかのぼる。「3年たってものにならんかったら、別府に帰って来い」-。51年前の親父の言葉は今でも稲尾の耳に深く残っている。漁師として跡を継いで欲しかった父の思いを断ち切り、プロ野球という「夢」の世界に飛び込んだ。西鉄、南海との争奪戦はし烈だったが、最後に地元球団入りを決めてくれたのは父久作だった。

 「漁師にはなりたくなかった。プロに入って、3年で結果が出なかったら、漁師にならなくてはいけない。親父との約束があったからね。まあ、それもあって頑張れたのかもしれないが、3年目のシーズンが終わったとき、本当に思ったもんなあ。『ああ、これで漁師にならんですんだわい』とね」。

◇風呂敷1つ

 稲尾のプロ3年目は「神様、仏様、稲尾様」と呼ばれ、球界での地位を不動のものにした年である。3年連続となった巨人との日本シリーズで3連敗後の劇的4連勝。文字通り稲尾の右腕で手にした奇跡のシリーズ制覇で幕を閉じたシーズンだった。3年目を終えたとき、稲尾はすでに89勝を稼いでいた。経営者としての稲尾は「商売は向かないね」と、自嘲(じちょう)気味に笑うが、父の言葉を胸に「背水の陣」でプロの門をたたいた男はまさに「欲望の塊」となって腕1本の世界に殴りこんだ。家族に見送られ、入寮のため別府駅を1人旅立った稲尾の手にはグラブもなかった。数枚の下着と衣類を唐草模様の風呂敷に包み、博多へ向かったのである。

 「背景には貧乏漁師の家に育ったというのがあったのだろう。プロには当時のサラリーマンにはない世界があった。もちろん、名誉欲みたいなものもあるが、それ以上にプロはマネーというのがあった。今は株でもうかる人も、頭脳を使うということはあるんだろうけど、プロ野球選手の資本は体1つ。汗して稼ぐという気持ちは強かった。分かりやすく自分を切磋琢磨(せっさたくま)できたしね」。

 胸に刻み込んだ父久作の言葉…。そしてプロ1年目の1956年(昭31)早春。「鉄腕」の礎となる初のキャンプを迎えようとしていた。【佐竹英治】

 ◆漁師のせがれ 稲尾の父久作(故人)は大分・別府で糸釣りの漁師だった。7人兄弟の末っ子として生まれた稲尾は、小学校に入学したころから父とともに伝馬船に乗り、櫓(ろ)を漕いだ。将来は漁師として跡継ぎにしようと思っていた父だったが、中学、高校とメキメキと野球で頭角を現してきた息子の野球に対する情熱に、漁師を継がせることを断念。プロ入り時、南海、西鉄との争奪戦になったときには「(別府から)船を漕いでも行けるところがいい」と、息子の西鉄入りを決めた。久作氏は稲尾のプロ3年目の58年(昭33)2月5日、胃がんのため逝去した。

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