鉄腕の歩み 鉄腕の栄光 鉄腕グラフ 日刊スポーツ連載 鉄腕人生

 

第7回:西鉄誘いは「バッターで」

◇契約金50万円
大分で自主トレで和田博美捕手とランニングする稲尾和久(左)

 稲尾は期待の即戦力ルーキーだったのだろうか? 答えはノーである。当時、西鉄ライオンズを率いた三原監督は、1954年(昭29)の初優勝後、大幅なチーム改革を推し進めていた。中西、豊田に代表される高卒ルーキーを中心とした「新ライオンズ」の形成である。その集大成が56年からの日本シリーズ3連覇となったわけだが、チーム編成の構想からすると、ちょっぴり早すぎる「黄金期」だったとも言えなくない。もちろん、中西、豊田らの逸材はそろった。だが、結果的に「鉄腕」稲尾が救世主として登場しなければ、西鉄のシリーズ3連覇はなかったと思えるからである。だが、初めてのキャンプを迎えたとき、首脳陣もチームメートも、大分・別府から出てきたひょろりとした男はただの「新入り」でしかなかった。

 「おれ? まったく期待されていなかったと思うよな。入団の時、南海との争奪戦になったといっても、地元の選手を敵チームに渡したくない、という気持ちの方が西鉄には強かったんじゃないのかな。甲子園にも出ていないし、確かに高校2年くらいから大分では注目されていたけれども、高校最後の夏の大会のときも、西鉄のスカウトの人はオレが打ったホームランを見て「君、バッターで来てくれ』と言ったくらいだった。担当だった竹井スカウト(故人)も『投手が少ないからね」と話していたしね」。

◇同期生は600万

 稲尾が入団に際して手にした契約金は50万円、年俸は42万円だった。当時の公務員の初任給が1万円も満たない時代だ。月給3万5000円は高卒ルーキーには大金ではあった。だが、小倉高出身で同期入団の畑隆幸投手は甲子園準V投手。さしずめ、昨年の甲子園で言えば、ハンカチ王子の佑ちゃん(早実・斎藤)か、駒苫のマー君(楽天・田中投手)と、いったところか。畑の手にしていた契約金600万円の数字にはさすがに稲尾も意気消沈するしかなかった。

 金額に対するジェラシーは、別の意味でため息となって返ってきた。合同自主トレ中の寮でのブルペン投球。左腕から速球をバンバン投げ込む畑投手の投球に完全に圧倒されてしまった。

◇投球にも圧倒

 「受けていた先輩捕手が、真剣な顔をして畑のボールをとるんだけど、オレが投げるボールは軽くさばくような感じで受けるんだな。おれと畑の球では、まずミットの音が違ったし、おれはあまり期待されていないんだと思った」。

 深く落ち込んだが、気持ちの切り替えの早さも天性のもの。「現実」を知ると、ムクムクと稲尾にハングリー精神が芽生えていた。【佐竹英治】

 ◆稲尾の同期入団選手 稲尾とともに西鉄ライオンズに56年(昭31)入団したのは、畑隆幸投手(福岡・小倉)西原恭治投手(大阪・岸和田)田辺義三捕手(群馬・桐生)三竿徹内野手、片山敏彰内野手(ともに岡山・倉敷工)の計6人。畑と田辺は甲子園出場組で即戦力としての期待は大きかった。

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